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飯田医師会の歴史
 飯田医師会のルーツは、飯田下伊那医師会史に「明治20年12月に下伊那医士組合を設立した」とあり、これが全県の動きと歩調を合わせた組合の創立と考えられる。創設時の組合員数は94名であった。明治39年5月に我が国で初めて医師法が発布された。41年3月の長野県医師会の設立に先立って、40年3月下伊那郡医師会が発足した。42年3月には長野県医師会の二代目会長に下伊那郡医師会の滝澤清顕氏が就任している。大正時代には肺結核のほか腸チフス、赤痢、コレラ、ジフテリア、インフルエンザ(スペイン風邪)が大流行し、医師会員がそれらの撲滅に活躍した状況が当時の医史に詳細に記録されている。大正8年に医師法が改正された。大正14年8月の飯田下伊那地域の医師数は97人との記録がある。

 昭和17年 国民医療法に基づく医師会組織の改組があり、郡市医師会は廃止され長野県医師会の支部になった。これに基づき昭和18年4月、飯田下伊那地方の医師組織は飯田市支部と下伊那郡支部の2つに分かれた。1つであった医師会が飯田市支部と下伊那郡支部の2つに分かれた理由の1つは、戦時中の統制経済下にあって、医薬品の配給量は医師会の支部毎に一定量が決まる仕組みになっており、配給量を少しでも多くしようとの狙いがあったと言われている。この2つの組織が戦後も引続き飯田市医師会と下伊那郡医師会(後に飯田下伊那医師会と改名)として再スタートし、2つが合併する平成14年まで飯伊地域の医療を担っていたことになる。合併する前の「飯田市医師会」と「飯田下伊那医師会」の起源は遡るとここに行き着く。

 昭和22年5月、社団法人長野県医師会が誕生。同年8月長野県医師会下伊那郡支部が下伊那郡医師会を設立、初代会長が関 文圭氏。会員数72名。同年9月長野県医師会飯田市支部は飯田市医師会を設立、初代会長が西澤寛志氏。会員数43名。両医師会とも、11月1日付で長野県知事から社団法人として認可された。

 飯田下伊那地域でも、昭和31年から59年に至るまでに多くの市町村合併が行われた。その結果、飯田市・下伊那郡両医師会の組織範囲と行政の範囲が食い違う状況が大きくなってきた。そのため戦前のように飯田市と下伊那郡全域を範囲とした単一の組織の方が活動しやすい状況となり、両医師会の合併が検討されるようになった。昭和44年から数年毎に両医師会の間で合併問題の話し合いが行われたが、いずれも合意に至らなかった。平成14年になってようやく飯田市医師会と飯田下伊那医師会の間で統合についての合意が得られ、新生「飯田医師会」が誕生した。初代会長には滝沢瑞穂氏が就任、この時の会員数は274名であった。その後唐沢弘文氏、蟹江孝之氏に引き継がれ、現在の市瀬武彦会長は4代目に当たる。

 当地域では休日夜間の救急医療体制の構築に熱心で、古くは大正6年12月飯田に「夜間診療所」を開設したとの記録がある。昭和30年代には当時の飯田市医師会が外科の当番医制、41年に内科・小児科の在宅当番医制を、46年には下伊那郡医師会が休日急患診療所・テレフォンセンターを設立して、現在の休日在宅当番医制、休日夜間輪番病院制、休日夜間急患診療所(52年4月設立。夜間診療所の開設は県下初)に引き継がれている。
(前飯田下伊那医師会・医師会史編纂委員長 蟹江孝之)