歴史の節目に当たり長野医報のマイルストーンになる話を、とあまりに重いテーマに戸惑いを感じ、また社会情勢や個人に思いを馳せればいくつも思い出される事もありましたが、飯田医師会にも平成の最も大きな出来事がありました。それは何といっても平成14年の飯田市医師会と飯田下伊那医師会の合併統合による『飯田医師会』の誕生であります。
県下の20の医師会も多くの歴史を歩んできた様に、飯田医師会も、東京都、大阪府、香川県等と面積がほぼ同じと例えられる飯田下伊那地域にて、明治20年に下伊那郡医士組合が出来たのが始まりで、県令により明治35年下伊那郡医会、更に明治40年医師法発布により郡医師会へと発展、大正8年に医師法改正で長野県医師会の支部として下伊那郡医師会が発足されました(神田松之丞のように、ハッシはしと綴っていかないと読み飛ばされそうですが、しばしのお付き合いを)。
ところが、戦時中の経済統制下の昭和18年に、医薬品の配給量は各医師会ごとに一定量になっていた為、少しでも多く配給を確保するねらいで医師会を二つに分ける事にし、それ以降平成14年までほぼ60年にわたり当地では2つの医師会が存在してきました。
その60年の間には、飯田下伊那の数多くの町村は次々と合併・統合が進み、両医師会も組織範囲と行政の範囲が食い違う状況が少しずつ拡大し、戦前の単一の医師会の方が活動しやすい、とした合併論議が出てきまして、昭和44年から3年ほど両医師会で合併条件をすり合わせる話し合いが持たれましたが、決裂。しかし町村合併は更に加速され、広域行政が一段と進み、救急医療、学校保健体制などの保健行政面でも飯田下伊那が一つの医療圏として捉えていかなければ困難な状況になり、昭和63年から再び合併の模索が始まりました。それから多くの議論を重ね、平成14年にやっと、会員数278名の県下3番目の大所帯となった飯田医師会が誕生し、今日に至っているのです。
医師会合併から今日までの17年間は円満な運営状況で、市町村、保健所等、行政との連携も年々強化され、合併前の混乱を制する副産物とも言える包括医療協議会(昭和46年に発足され、昭和49年設立)と共に、地域住民の医療・福祉を広域的視点に立って対応できるようになってきました。
ちなみに、当地の包括医療協議会は、地域救急医療体制の確立で平成19年に厚生労働大臣表彰を、救急医療・小児保健の向上で、平成20年に保健文化賞を受賞されました。平成の歴史に名を残せた事は、二つの医師会を取り持ったご褒美だったのかもしれません。
前回の改元の時は諏訪日赤に勤務していた時でしたが、今度の改元は平成の時と違って、天皇退位という特例法によるものですので、明るくお祝いに近いムードで迎えられると思います。明るい話といえば、飯田にはあと8年(2027年)でリニア新幹線がやってきます。こんな田舎に大都会や世界とあっという間に繋がる時代が到来するのです。新たな人間と文化の交流が始まります。
飯田医師会も、体制を新たにし、医療と福祉の充実した桃源郷を創るという壮大な夢を持って、新時代を迎え入れる準備をしなくてはならないと思います。
(長野医報2019年5月号から転載)